今週の鶴見川


2001/10/27 土

13時30分。晴れ・気温22度
東の風0〜3m、ほぼ満潮?

台船より鶴見川を見る

 先週はスラ艇、先々週はお休みだったので勘がなくなってないか心配だ。 出艇・即沈ではかなわないので、慎重に離岸。
 カミソリの上に立つというか・・艇に体を預けられない不安を感じる。  今まであまり意識しなかったが、体は懸命にバランスをとっていたわけだ。  フェザーパドルには安定感がある。水面に滑らかに切れ込むパドルに体重を預け ながら、べったりと凪いだ水面を漕ぎ進む。

 本日漕行16Km、1時間44分

 いつもの感覚はすぐに戻ってきた。コースの方も、とても平らでイイ感じだ。  こういうときのFWレーシング艇はとても気持ちがいいのだ。
 軽やかにスイスイ水面を進む。  気がつけば練習では記録的な好タイムで4週を漕ぎ終えていたのだった。



2001/10/20 土

13時25分。晴れ・気温18度
ほぼ無風、上げ潮

台船より鶴見川を見る

 家から愛用のパドルを持ってくるのを忘れてしまった。  レーシング用のウイングパドルだ。 漕艇場の平パドルを借りて乗ってみたが、 ストロークでブレードが左右に振れる感じがして、いまにも転覆しそうな不安を感じる。
 高校(少工)時代は輪郭が楕円形の平パドルを使って漕いでいたのだが、今のパドルを 使うようになって5年も経つし、すっかり感覚が変わってしまっているようだ。  まあ25年も前の話だもんね。それにあのころの艇は安定が良かった。  当時でもレーシングK−1ではデンマーク艇とやら言う、 今のような幅のピークがコーミングの後ろにある菱形の艇を使っている学校が多かったが、 我が校では試合用のカヤック5艇中、新型は「ハンター」一艇のみで、後の「ラビット」と いう艇は 柔らかな曲線を持つ古い型の艇だった。 しかも試合用の艇はカナディアンも含め、全て木艇(もくてい)だ。  これは当時グラスファイバーを織り込んだFRP製の艇よりも、 木艇の方が軽量だったためだろう。  それにしても美しい曲面を持つ木製のレーシング艇はまるで美術工芸品のようであった、 といったら大げさか。 いまでもお金に余裕があり、まともな艇庫があったなら 木艇がほしいくらいである。

 本日漕行9Km、1時間20分

 練習から話がそれた。
 で、結局自艇での練習はあきらめて、スラローム艇を借りることにした。  もしかしてスラ艇乗るのって初めてなんでないかい。(急に函館弁)
 そしたらシートにお尻がはまって動かせなくなってしまったので、 オレのお尻ってもしかして大きいのか? と思ったとさ。
 まっすぐ漕ぐのが精一杯で、スピードも出ないし息も切れるけど、結構面白かった。 思ったほど安定は良くなかったが、 それでも沈する不安が少ないぶん楽しめたんだろうな、きっと。

漕艇場備品スラローム艇

これがそのスラ艇じゃー



2001/10/14 日

喪 中

9時50分。晴れ・気温18度
ほぼ無風

一色より木曽川を望む
木曽川

 本来なら「横浜縦断カヌーフェスティバル」に参加予定であったのだが、 伯母の逝去により不参加となった。  伯母の暮らした家は岐阜県関市の長良川のすぐ傍らにある。  昨日は当家の家長たる伯父の家に泊まったのだが、父の生まれ育ったこの家も また、木曽川の中州のごとき集落の中にあるのだった。  自分の中にある川への憧れも、 先祖の暮らしたこのような土地柄によるものかもしれない。

 ついまじめそうなことを書いてしまった。
まあ、いきなり「喪中」だしな・・。

 えー、そういうわけで「運河レース」はお休みさせていただきました。実行委員の方々、 申込書を手配してくださったBAJAのママ、 そしてもしかしたら会うのを楽しみにしていてくれたかもしれないみなさん、ごめんなさい。



2001/10/7 日

13時40分。曇り・気温17度
北の風2m、上げ潮

台船より鶴見川を見る

 10月に入ると日没も早くなり、コースの利用時間も午後4時が最終となる。  で、3時50分に上がるとすると2時間漕ぐためには遅くとも1時50分までには 出艇しなければならない。 それなのに漕艇場に到着したのは1時30分とぎりぎりの 時間になってしまったので、漕ぐ距離を短縮してなんとか時間内に練習を終えたのだった。
 この遅刻しちゃう心理というものは、やっぱり練習から逃げ出したいのだろうかな?  冷静に考えてみればそんなにきつい練習してるわけじゃないのにおかしなものだ。
 ところで、来週は恒例の「横浜縦断カヌーフェスティバル」 (別名「運河レース」(勝手に銘々))に参加する予定なので鶴見川での練習はお休みします。

 本日漕行14Km、1時間42分

 深夜1時半頃、米軍によるアフガニスタンの空爆が始まった。  爆撃による直接の犠牲者は不明だが、難民がパキスタンなど隣国に押し寄せているらしい。 依然として近隣のイスラム教徒はタリバンを支持しているようで、オサマ・ビン・ラディン氏の 人気も相変わらず(というか思い出されたように)高いようだ。 これでは、テロの首謀者対アメリカとか、タリバン対アメリカではなくて、イスラム対アメリカ という置き換えが簡単になされてしまいそうで恐ろしい。  難民の中には避難中に家族を失った者もあるという。いったい見えないところでどれくらいの 人々が犠牲になるのだろうか。 口の中に苦いものが広がる。




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